「責任はオレがもつ」
人口動態調査(厚生労働省)によると、1~3月は死亡者が多い。夏場に向かって減っていき、9月を底に再び増えていく。冬場に亡くなる人が多いのは、やはり寒さのせいだろうか。筆者の父は1月、母は2月に死んだので、データどおりということになる。ちなみに3月は自殺者が最も多い月だそうである。
ことし1月、石井成樹さんが腎盂がんで亡くなった。享年72。石井成樹と言われても一般の人は知らないだろうが、電機業界の『電波新聞』記者、事務機業界の『事務機器新聞』編集長、IT業界の『BCN』取締役として健筆を揮った人だ。筆者が初めて編集長として仕えた人でもある。
石井さんは温厚な人だった。初めて新聞記事の原稿なるものを書き、チェックをお願いしたときのことは今でも覚えている。
「ふむ...。いいんじゃない」
それが石井さんの反応だった。もしかしたら、読みもせずに屑篭に捨てられるのではないか(そういう経験をしたと誰かが書いていたのを読んだ記憶があった)と恐れていただけに、それは拍子抜けするものだった。
その当座は不遜にも(新米記者の原稿なんだから何か問題はあるだろう。業界新聞の原稿チェックとはこんなものなのか)と少々落胆したが、いま改めて思うと、精読して問題点を指摘するほどヒマではなかったのかもしれないし、屑篭に捨てるには原稿用紙がもったいなかったのかもしれない(当時、その新聞社の給料は遅配していた)。
石井さんは1970年代から80年代にかけて注目を浴びた電卓やワープロ(専用機)に詳しく、業界では名の通った人だった。大手の週刊誌が電卓の特集を組んだとき取材を受け、実名入りでコメントが紹介されたこともある。
70年代、事務機器の性能向上を背景に、工場の自動化(ファクトリー・オートメーション)は実現した、次はオフィスの機械化だという機運が高まっていた。それをうけて1979年にオフィス・オートメーション学会が設立された。そのとき、記事にする際、どう簡略化して表記するかを石井さんと話したことがある。文字数をなるべく減らしたい新聞としては「オフィス・オートメーション」はいかにも長かったからだ。
筆者がラチもない略称を考えていたとき、石井さんが口にしたのが「OA」だった。なるほど、オペレーションズ・リサーチ(経営意思決定のための数学モデル)はORと略すから、オフィス・オートメーションはOAでいいわけか、センスのいい人だなと感心した。
ちなみにOA学会は2007年4月から日本情報経営学会(JSIM)に名称変更している。
石井さんにはいろいろと教えてもらったし、助けられたこともある。今でも覚えているのは新聞の刷りなおしをしたときのことだ。
筆者のいた新聞社は週刊新聞が主力だったが、月刊の雑誌と新聞も発行していた。筆者はその雑誌編集に携わる傍ら、ブランケット版6頁の月刊紙の編集を任されていたのだが、あるとき新聞の試し刷りで誤植が見つかった。今と違って活版印刷だったので、この段階での誤植は輪転機にセットした鉛版(えんばん)の文字を削りとることで対処していた。これは筆者がいたような小規模の業界新聞のみならず、朝毎読のような大新聞でも同じで、時折り一文字か二文字、記事が空白になっていたものだ。
だがこのときの誤植は見出しの固有名詞だったので、鉛版を削りとれば何とか誤魔化せるものではなかった。ガツンと頭を殴られた気分だった。活字を組みなおし、紙型(原版の複製を作るための紙製の鋳型で、これを元に鉛版を作る)を取り直し、鉛版を作り直さなくてはならない。
さあ、困った。月刊紙の編集長は社長が兼務していたのだが、朝の早い段階だったのでまだ出社していない。石井さんも出社していないので相談相手がいない。かといって、輪転機を止めておくことも出来ない。なぜなら、他にも多くの業界新聞が待機していたからである。
新聞の活版印刷にどれくらいの経費がかかるかは、以前に社長から明細を見せられたことがあるので知っていた。紙型代、鉛版代、用紙代などを概算してみると、当時の筆者の給料を上回る額だったが、ままよ、責任追求されたら給料で返納することにしようとハラを括り、急いで刷りなおし作業に取りかかった。
再度、試し刷りを目を凝らしてチェックし、問題がないことを確認して輪転機を回してくれるように現場の人に指示する。輪転機がゆっくりと回転を始め、速度を増していく。頭上で巨大なロール紙を巻き取りながら記事が印刷され、新聞が出来上がっていくこの瞬間を見上げているのが好きだった。
もっとも刷り部数は千部ほどなので、輪転機は最高速度に達したかと思うと、すぐに速度を緩める。頭上から、折りたたまれて降りてきた新聞は自動的に裁断され、手許に積み上げられる。ほっとして、その刷り出しを5部ほど手にして輪転機のある地階から社のある5階(だったと思う)に戻ると、石井さんが出社していたので事後報告した。そのとき、彼はこう言ってくれた。
「わかった。責任はオレがもつ」
嬉しかった。給料なしを免れたということもあるが、いざというとき頼りになる上司がいてくれたことが嬉しかった。
石井さんは左党だったらしいが、筆者が入社した頃は前立腺を患っていてアルコールを控えており、一緒に呑むことはなかった。
このところ、友人、知人が亡くなると、もっと会って話をしたり呑んだりしておくべきだったと、後悔することしきりである。