2013年1月アーカイブ

「長幼の序の気持って大切だと思います」

 

 昨年(2012年)末のNHK紅白歌合戦では東方神起、KARAといったK-POP(韓国大衆音楽)の姿が消えた。竹島問題を起因とする日韓関係の冷え込みが背景にあるらしい。知りうる限りの情報では、竹島に関する日韓の主張は日本に分があると私は思うが、政治問題で文化芸能活動が制限されるのは不幸である。

 

 K-POPの先駆者ともいうべきキム・ヨンジャさんが今年2910日に予定していた世宗(セジュン)文化会館でのコンサート(日本からのツアーが組まれていた)も中止になった。理由は明かされていないが、同じ事情からだろう。世宗文化会館はソウル特別市にある韓国(大韓民国)最大の複合芸術施設だそうである。そしてヨンジャさんは韓国の美空ひばり的存在の歌手だ。残念なことである。

 

 ヨンジャさんにお会いしたのは7年ほど前になる。東京港区・芝公園のメルパルクホール(東京郵便貯金ホール)での公演を終えて一階のコーヒーラウンジにやってきたヨンジャさんは、小柄な体からエネルギーを発散させていた。

 

 キム・ヨンジャ(金蓮子)さんは1959125日、韓国全羅南道光州市の生まれ。韓国TBCテレビの歌謡新人コンクールに二度優勝し、プロデビューした。1981年に発表した「歌の花束」は360万枚のゴールデンディスクとなった(取材した時点でこの記録は破られていない)。初来日は1977年である。

 

 韓国の美空ひばり的存在と書いたが、ヨンジャさん自身、美空ひばりを尊敬しているという。

 

 「知り合いがひばりさんのレコードを持っていて、日本にはすごく歌のうまい人がいるんだよって、港町十三番地を歌ってみせてくれた。わたしも真似して歌ってみたけど、こぶしについていけない。すごいねって感心したら、じゃあ、オリジナルを聴かせてあげるって。それで初めてひばりさんの歌を聴き、感動したのを覚えています」

 

 歌謡新人コンクールの優勝が日本のレコード会社の目にとまり、19778月に来日して、その年の11月にはアルバムとシングルを同時発売した。「すごいでしょう? 日本にくるなりレコーディングして、アルバム発売という破格の待遇!」

 

 レコーディングしたのは韓国の歌謡10曲。1番と3番は日本語、2番が韓国語という構成で、日本語を特訓してのレコーディングだったが結果はあまり芳しくなかった。帰国し、三年後に再来日したが、それは歌手としての闘争心を鼓舞されたからだという。

 

 「口幅ったいことを言うようですが、お金のためだけなら韓国で歌っていれば充分やっていけました。でも、よい仕事がしたくて日本にきた。日本はステージの設備や環境が素晴らしく、なによりお客様の質が高くやりがいがあります。そうしたレベルの高い日本で仕事がしたかったのです。おかげさまで今ではよい仕事ができるようになりました。ですから、わたしは日本で育てていただいたという気持ちを強く持っています」

 

 そのお返しを少しでもしたいと、ヨンジャさんは数多くのチャリティコンサートを開いている。例えば1991年の雲仙普賢岳噴火の被災地である長崎・島原では終息宣言が出るまでの5年間、毎年自主コンサートを開き、被災者を励ました。

 

 「初回は6割ほどの入りで、お客様は暗い表情をされていました。それが2回、3回と続けていくうちにお客様の表情がだんだん明るくなっていったんです。とても感動的でした。わたし自身、ああコンサートを続けてよかったと、とっても嬉しくなった。そして、日本語でいう報恩というのはこういうことだったんだ...と、しみじみ思いました。相手を癒したり励ましたりしてあげているつもりが、いつしか自分も癒され励まされるのです」

 

 1995年の阪神淡路大震災でも発生5日後に、交通手段に苦労しながら被災地を訪れ、ミニコンサートを開いた。全国の刑務所を訪問して受刑者を慰問する公演も40回以上開いているし、海外での被災者慰問活動も続けている。

 

 「わたしは歌手ですが、その前に一人の人間でありたい。ですから、これからもこうしたチャリティコンサートや慰問公演を続けたいと思っています」

 

 話を聞いていると、ヨンジャさんが韓国人であることを忘れそうになる。


 「わたし、どこか日本人っぽいところがあるんですよ。韓国人って、仲がよくなると相手との一線を取っ払って何でもしてあげたいタイプ。それはそれでいいと思うけど、だからといって相手にズケズケと入ってこられるのも、わたしはいや。それは18から20歳までの人格形成に一番重要な時期を日本で過ごしたことが影響しているみたい。ですから韓国では、日本人っぽいとよく言われます(笑)」

 

 だが、いまでも歌い方は韓国人だと思うという。「だってカンツォーネが好きだし、大きな声で歌うのが得意ですし。語るような歌い方とか、ソフトさ、優しさといったものは日本にきてから勉強しました」

 

 歌い方だけではない。考え方にも韓国人としての根のようなものが生きている。


 「わたしは儒教が大好き。なぜかというと長幼の序、つまり年長者は年下を慈しみ、年下は年長者を敬うという考え方が好きだからです。子供が大人になり、お父さんになり、お爺さんになり、やがては死を迎える。これって、皆が辿る人生の順番なんですよね。それなのに、子供や若い人がお父さんやお爺さんを馬鹿にしてどうするんですか。自分たちはお父さんやお爺さんにならないんですか? 韓国人として日本の若い人を見たとき、一番歯がゆいのはそこですね」

 

 ネット社会になり、グローバル化が進んで、ビジネスでは過去の成功例は役に立たないといった風潮がある。学校では教師も生徒も平等という意識があるとも聞く。そうしたことが、日本で長幼の序が薄れている要因かもしれないが、ヨンジャさんの指摘は傾聴に値する。

 

 「韓国人は目上の人を大事にします。それは自分たちがいずれ辿るべき順番であり、人生の道であることを承知しているから。でも日本の若い人たちは、あたかも自分はそこに辿らないかのような物言いをすることが少なくない。ですから、いずれあなたたちもその世代、年齢を辿るのよ、という教育や環境づくりが必要なのでは? まず大事なのは現在の家族。その次に大事なのは過去の家族。そして隣近所の人たちとの輪。そういうふうに輪、輪、輪で広げていけば、隔絶した他人意識というものは生まれないと思うのです」

 

 東日本大震災以降、日本でも「絆」意識が生まれた(この言葉にはどこか欺瞞を感じて私は好きではないが)。だが、独居老人は増える一方で、孤独死も減らない。「長幼の序」を再教育する必要があるのではないか。ビジネスで過去の成功が役に立たないという面があるのは否定しない。だがそのことと、年長者を尊重しないということは同列に考えないほうがいい。

 

kim.yonja.JPG

                  キム・ヨンジャさん 

 

キム・ヨンジャさんのオフィシャルサイト

  http://www.kimyonja.com/


 

 「創造力に恵まれた日本の地方の環境を活かそう」

 

 飛行機のパイロットが一番緊張するのは離着陸のときだそうである。安定した地面から不安定な空中に飛び出したり、空中から着地するわけだからさもありなんと思うが、取材者の場合は相手に最初の質問を投げかけるときであろうか。

 

 私の場合、飛び込みで取材することは少なく、大抵は事前にアポイントを取るので、相手がどこの誰であるかは予め分かっている。だが初めての相手に対しては大なり小なり緊張する。相手がどんな性格なのか、こちらの質問の意図や意味をきちんと理解してくれるか、どこまで本音を話してくれるか――。

 

 紀井奈栗守(きいな・くりす)さんに初めて会ったときも少なからず緊張した。日本語を話すが、本名はクリストファー・キーナというガイジンさんだから、なおさらだ。だが紀井奈さんには面食らわされた。名刺交換して訪問の意図を改めて説明し、取材を始めようとしたら、紀井奈さんはこう言ったのである。

 

「近くにいい温泉があるから、行きませんか?」

 

 紀井奈さんは株式会社鴨(かも)というコンサルティング会社の社長で、同社は長野県上山田町にあった。温泉好きの人はご存知と思うが、上山田といえば温泉の町である。訪ねた時間も午後遅かったし、取材が長引いたら最終列車で帰ればいいと思っていたから、ままよと誘いに乗った。

  

 温泉の浴場は徒歩数分のホテルの最上階(五階か六階だったと思う)にあった。風呂に入るには時間が早いせいか、利用客は我々のほかに中年の男性が一人しかいない。窓越しに雪を頂いた山が迫り、いい眺望だった。そこで世間話をしているとくつろいでしまい、仕事のことを忘れそうになって弱った。

 

 このときの取材はデータベースソフトをどう活用しているかを訊くのが目的だったのだが、温泉から戻ってみると紀井奈夫人の明子さんがビールやつまみを用意してくださっていて、またまた弱った。私は下戸の部類に入るが、決してアルコールが嫌いではないのだ。

 

 だがここは心を鬼にしてビールを一口飲んだだけで取材を再開し、短期集中型? でとにかく記事をまとめるのに必要最小限のことは訊いた。だが今から思えば、まんまと紀井奈さんの術中にはまった気がしないでもない(といって、紀井奈さんが何かを隠すために取材者を歓待することによって煙に巻くとか、そういう必要は何もなかったはずだが)。

 

 その後、紀井奈さんには別のテーマでの取材や仕事以外でも何度かお会いした。紀井奈さんは米国コネチカット州の出身で、ブラウン大学でコンピュータ科学を学んだあと、カリフォルニア州立大学バークレー校で文化人類学の理学博士を取得している。博士論文は長野県坂城町を研究した「ある地方都市の奇跡――高度成長期の工業発展」というものだ。

 

 「坂城町は人口16000人ほどなのに400社近い中小企業があった。単純計算すると40人に1人は社長なのです。なぜそういうことが可能だったのか、誰にも分からない。行政が計画をしたわけでもなければ、大企業の下請けでもない。そこで調べていくと、旺盛な起業家精神があった。偶然も作用していますが」

 

 坂城町は工業の町というイメージが強いと思うが、産業廃棄物などの汚染の心配がない。それは坂城町の中小企業の環境に対する意識の高さや行政の努力が背景にある――と紀井奈さんは指摘する。

 

 「一方で坂城町は農業も盛んで、住宅地もあり、なんといっても自然が身近でとてもバランスが取れている。私の仕事は創造力を必要とするのでこの環境から力を貰っているが、実はこのことは坂城町に限らない。日本はどこに行っても豊かな自然がある。その中で創造力を働かせながら、競争力のある製品を生み出していくのに、日本の地方ほど恵まれた環境はないのではないかと私は思うのです」

 

 紀井奈さんの会社は日米企業のビジネスの橋渡しを行なっており、日本側の企業の顧客は東京の会社が多い。こうした場合、普通は東京に会社を構えがちだが、紀井奈さんの会社は現在、坂城町にある。それは東京だと経費がかさむこともあるが、主因はバランスの取れた環境にあるという。

 

 「日本の企業は少し大きくなると会社を大都市、とくに東京に移したがるが、いかがなものか。地方にいてこそ発揮できる強みや特徴づくりを、わざわざ経費のかかる大都市に出て、その他大勢になることはないのではないでしょうか」

 

 人の多く集まるところでないと成り立たないサービス業のような業種だと大都市が必要になろうが、ものづくり全般、とくにパソコンソフトやスマホアプリの開発などは、紀井奈さんの指摘するように日本の地方はいい環境にあるといえるかもしれない。

 

 株式会社鴨 :〒389-0601 長野県埴科郡坂城町坂城6362-1 BIプラザさかき内

          tel 0268-81-1350 fax 0268-81-1351

          http://www.kamoinc.com/

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