日本は徳治国家、中国は人治国家
高校のころ、漢文が苦手だった。模擬試験で戻ってきた答案用紙に「(現代国語の出来に比べて)これはあまりに見劣りする」と添え書きがしてあったくらいである。あまりの出来の悪さに、採点した先生も呆れたのであろう。
だって、わからないのだから仕方がない。ずらりと並んだ漢字の傍らに小さく「一」とか「二」とか「レ」がふってあって、それで読み下せと言われても"順列組み合わせ"がわからない。五言絶句のような短いものでも事情は同じだった。
それから数十年たって、NHKの「漢詩紀行」という番組を観たとき、目から鱗が落ちたような気分になった。原語で音読する漢詩のなんと美しいことか。原語では順に読んでいく。読み下しのように行きつ戻りつしないので、韻を踏んでいるのがわかる。これが聴いていて心地よい。高校の漢文の先生があんなふうに読んでみせてくれてたら、私は漢文を勉強する気になったかもしれない(と、ひとのせいにしてはいけない)。
その漢文の中国を代表する人物の一人が『論語』でお馴染みの孔子。その孔子第75代直系子孫という孔健(こう・けん。本名:孔 祥林)さんにお会いしたのは8年ほど前のことだ。孔健さんは作家・評論家・大学教授で、日本語の中国情報専門紙『週刊チャイニーズドラゴン(中国巨龍)』の編集主幹でもある。著書も多く、テレビにも出演しているのでご存知の方も少なくないだろう。
孔健さんは1958年5月生まれ、中国青島市出身。中国・山東大学を卒業後、1985年に来日し、上智大学大学院新聞学科博士課程を修了している。博士論文を出す前に『チャイニーズドラゴン』を創刊して、ゼミの教授(武市英雄氏)に「論文を出す前に新聞を出す奴があるか」と怒られたという。
「当時は日中間の交流やビジネスが盛んになる一方で、中国に関する情報が少ないため、相互理解に役立つ新聞を出したいという思いを抑えることができなかった」と、孔健さんは語る。
日本語で読める中国情報紙としては初めてだったこともあって、『チャイニーズドラゴン』は大きな注目を集め、北京の人民大会堂で開いた記者会見・レセプションには日本から飛行機をチャーターして150人ほどが参加した。帰国してホテルオークラで1200人ほどを集めて開いたパーティーには中国からも50人ほどが参加、意気揚々の船出だった。
だがその後、船は何度も嵐に遭う。「あの時代、私は毎晩深酒をして自分を麻痺させていた。できれば翌日、目を開けなくても済むようにと願ったりもした。目を開けたら、借金のことを考えてしまうから。そうやって自分を麻痺させながら、〈2500年前のご先祖様もきっと苦労したんだろうな〉と思ったものだった」
ご先祖様こと孔子はかつて匡(きょう)の地で拘束され、自殺するしかないような状況に追い込まれた。「私も似たような状況だった。死に場所を求めてさまよったことが5、6回はある」
だが、日中交流に役立つ情報を伝えたいとの強い思いと使命感から、孔健さんは歯を食いしばって『チャイニーズドラゴン』を発行し続けた。そんな孔健さんに悪魔も忍び寄ったが、天使も微笑んだ。いま孔健さんは経営を他の人に任せ、編集主幹として日中の橋渡しに精力を注いでいる。
孔健さんの目に日本はどう映っているのか。「『論語』が経営や社会に根付いているのは日本が一番」として、次のように語る。
「日本の社会はピラミッド構造になっており、そこに孔子の思想が三本入っている。まず、上下関係を大事にすること。次に、教育のよさ。孔子は『有教無類』(人は教育の善悪によって支配される)と教えているが、これは言い方を換えれば教育は誰でも受けるべきということであり、日本はそれを実践し優秀な人材の輩出に繋がった。第三はモラル(道徳)。私に言わせれば、日本は本来、こうした『徳』を基本にした"徳治国家"だ」
ちなみに有隣堂という書店があるが、これは孔子の「徳不孤、必有隣」(徳を積んでいれば決して孤立しない。必ず理解者が現れる)からきている。
ただ、惜しむらくは今の日本は法治国家を指向し、米国追従になっている。その結果、「取引先や社員の気持ちを忖度し、皆が気持ちよく仕事をするという、日本人が永年大切にしてきたものをお金の論理だけで切り捨てているように見える」と、孔健さんは危惧する。
「最近の日本は、かつて有していた美徳をどこかに置き忘れている。とくに若者の礼儀はなっていない。むろん常に例外はあるが。だからもっと小学校からの基礎教育をしっかりしてほしい。『論語』では〈修身、済家、治国〉を教えている。修身とは礼儀正しく、よく勉強すること。その上で家をしっかり整えるのが済家。そうやって修身と済家がなされることによって国の基盤ができ、経済も豊かになる。そうなれば天下は自ずと治まる」
「日本は本来、徳治国家である」との孔健さんの指摘は、わが身を振り返ると耳に痛い。上下関係をそれほど気にしてこなかったし、不勉強だし、あんまり道徳的でもないしなあ。これを機会に改善に取り組んでみようか...。
ところで中国といえば、先に開かれた全人代(中国共産党全国人民代表大会)で第7代国家主席に選ばれた習近平氏は「法に基づいた国づくり(法治国家)」を目指す姿勢を打ち出している。全人代の前に開いた中国共産党中央政治局の学集会でも、習氏は「憲法と法律の実施を強化し、社会主義法律体制の統一、尊厳、権威を維持し、人々の違反を防ぐ法的環境を構築していく」といった発言をしている。
大きなお世話だろうが、志は買うとして実現は並大抵のことではないだろう。なぜなら、孔健さんによれば中国は"人治国家"だからである。
「日本人の多くは中国が法社会と思っているだろうが、それは違う。中国は生産量を国家が決め、それに基づいて国営企業や人民公社が生産を行なう計画経済のため、人の要素が介入しないように見えるが、実際は権力は共産党と政府要人に握られ、彼らのゴーサインがなければ事は運ばない。つまり中国は人治主義、人治国家なのだ」
個人が生活や習慣を変えるのさえ容易ではない。いわんや、国家体制の変革においておや、である。といって、法治国家を目指す習氏にケチをつけるつもりは毛頭ない。ぜひとも法治国家を実現してもらいたいものだ。
蛇足ながら、私は干武陵の「勧酒」という漢詩が気に入っている。
勧君金屈巵 君に勧む金屈巵(きんくつし:柄のついた黄金製の酒器)
満酌不須辞 満酌(なみなみ注いだ酒)辞するを須(もち)いず
花発多風雨 花発(ひら)けば風雨多く
人生別離足 人生別離足(おお)し
これには文豪井伏鱒二の次のような名訳がある。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
サヨナラダケガ人生ダ
梅は咲いたし、桜も咲いた(桜前線北上中)。桃も辛夷(こぶし)もいまぞ時。皆さん、勧酒といきますか。
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