生縁察智――久保 悌二郎さん

T.Hidaka
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 「原稿を書くことは請求書を書くこと」

 いま、IT関連の出版物がどういう状況になっているのか皆目わからないが、かつてIT産業のオピニオンリーダー的存在の雑誌があった。コンピュータ・エージ社が発行していた月刊誌『コンピュートピア』である。

  コンピュータ・エージ社はフジサンケイグループの子会社として1967年に設立(のちに同グループから独立)。初代社長の稲葉秀三氏は産経新聞社長で、日本経営情報開発協会の設立にも参画した。そうした経緯もあって、同年に創刊したコンピュートピアは単なる技術雑誌ではなく、国の情報産業政策等に関する記事も豊富で、オピニオンリーダーたちが産官学から集結している感じがあった。

  その『コンピュートピア』の名編集長だった久保悌二郎さんが今秋(20131010日)、すい臓がんで亡くなった。享年71

  久保さんには大変お世話になった。というより、原稿遅れで迷惑のかけどおしだった。

 「こっちの内部締め切りを読むんだもんなあ。まいっちゃうよ」

 

 言い訳の電話を入れると、久保さんはそう言ったものだ。寄稿者に依頼するときの締め切り日は、遅れを想定して余裕を持たせてある。月刊誌の場合、一週間程度はあるだろうか。むろん、こちらとしては編集部内のデッドラインを読んでいるつもりは毛頭ないので恐縮するしかない。

 

 こんなお叱りを受けたこともある。

 

「○○(筆者の名)さんね。原稿を書くということは、請求書を書くということなんですよ。請求書がないとカネを払うにも払えんでしょう」

 

 久保さんは、大きな目をした彫の深いマスクに口ひげをたくわえたいい男で、気の強い反面、照れ屋でもある。注文をつけるときの表情は、そのつっぱりとシャイが適度にミックスされてどこかお茶目な感じがあり、憎めなかった。

 

 『コンピュートピア』は200511月、通巻470号をもって廃刊した。パソコンがコモデティ化し、インターネットによる新たなコンピュータ利用が急速に進展し、携帯電話がパソコン化するなかで、コンピュートピアは情報媒体としてうまく適応できなかったのかもしれない。

 

 久保さんはインターネットの商用化が始まる以前の1990年、コンピュータ・エージ社を退社して千葉県流山市にある江戸川大学に転進した。当時、江戸川大学は開学したばかりだったが、江戸川学園のホームページによると教育機関としての歴史は古く、1931年(昭和6年)、東京・小岩町に開校した城東高等家政女学校に始まる。

 

 江戸川大学は社会学部応用社会学科、マス・コミュニケーション学科の1学部2学科でスタートし、現在は社会学部(人間心理学科、現代社会学科、経営社会学科)、メディアコミュニケーション学部(マス・コミュニケーション学科、情報文化学科)の2学部5学科に拡大している。

 

 江戸川大学で久保さんはマス・コミュニケーション学科を担当。キャンパスで教鞭をとるだけでなく、卒業生の就職支援でも大車輪で活躍された様子だ。伝統のある大学の卒業生でもスムーズに就職するのは難しい現代。新設大学の教官としての苦労は想像に余りある。大学の教育関連のコンピュータ運用を学生自治にするなど斬新な手法も採り入れ、学生からの信頼も厚かったようだ。

 

 助教授から教授になった久保さんは、その後、江戸川大学総合福祉専門学校の校長に就任する。大学人になった久保さんとは疎遠になっていたが、福祉学校に移ってから、お知恵拝借で連絡したことがある。15年以上のブランクがあったと思うが、それをまったく感じさせず、久保さんは懇切に対応してくれた。

 

 「情報」が専門の久保さんが俳人の本を出していたのを知ったのは告別式のときである。

 

『遊女・豊田屋歌川 北前船で栄えた三国湊の女流俳人』というタイトルの本だ(写真)。

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秋田市にある版元の無明舎出版から取り寄せて読んだ。

 

 タイトルにある三国湊は北陸福井県の港町である。北陸の女流俳人といえば加賀千代女が有名だ。不勉強で知らなかったが、久保さんによると豊田屋歌川はその千代女とともに「江戸時代中後期の北越(加賀・越前)の俳壇を彩った女流俳人」だそうで、代表的な句のひとつにこんなのがある。

 

 奥そこのしれぬ寒さや海の音

 

 筆者は冬の北陸を何度か訪れたことがあるが、これを読むと、重く垂れ込めた雲の下を歩きながら日本海から吹いてくる寒風にさらされたことや、岩場に咲く波の花の光景をまざまざと思い出す。名句である。

 

 遊女としての心情を偲ばせる句には、

 

 寄る波の一夜どまりや薄氷

 

 肖像画にみる歌川は美しい。遊女としての歌川も魅力的な女性だったに違いない。それにしても、なぜ久保さんが歌川に興味をもったのか。そういえば久保さんはたしか福井の出身だったように記憶しているが......。

 

 執筆の動機を久保さんはこんなふうに書いている。

 

 以前から親戚の間では、湊屋(筆者注:久保さんの曽祖父が経営していた廻船問屋)と豊田屋は親戚関係にあり、歌川との縁は浅からぬものがあったという、不思議な話は聞いていた。しかし、ことが遊女屋との関わりだから、あまりおおっぴらには語られてこなかったのも、むべなるかなである。しかし、その真偽を確かめたくなるのが人情というものだ――。

 

 だが歌川について書かれた記録や小説はいくつかあるものの、確たる資料は少なく、亡くなったのが三国湊なのは確かなようだが、生年や生国は不明という。生涯に詠んだ俳句の数も、研究者によってまちまちだ。

 

 『遊女・豊田屋歌川――』は、そうした多くの謎に包まれた北陸の女流俳人の生涯を辿りながら、彼女が生きた時代の北陸俳壇事情、夢とロマンに満ちた北前船の話、その海上運輸をめぐる三国湊と隣町との確執(それが北陸俳壇にも影を落とした)など、興味深いドラマが展開する。

 

 久保さんがこの本を上梓したのは20119月。その前後に病を得て2年間の闘病生活を強いられ、帰らぬ人となった。ご冥福をお祈りしたい。

 

  無明舎出版:秋田市広面字川崎112-1 電話 018-832-5680

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このページは、T.Hidaka2013年11月29日 15:02に書いたブログ記事です。

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