IT産業の最近のブログ記事

「時代に先行するソリューションを」

 

 電車の時刻や乗り継ぎの最短ルート、料金などを知りたいときはパソコンを使っている。到着時刻から逆算して乗る時刻を調べることも簡単で、いまさらながら便利な世の中になったものだと思う。

 

 最寄駅から目的地までは地図に頼っているが、こうしたパソコン―地図という"ハイブリッド型"はもはや少数派かもしれない。いまは路線検索だけでなく、目的地までの経路探索も携帯電話のナビゲーションシステムを利用する人が多いようだ。

 

 先日も若い知人が携帯電話で路線検索をしていたのでどのアプリを使っているか訊いたら、「駅すぱあと」だという。

 

「ほう、駅すぱあと。なぜそのアプリを?」

「なぜって...。これは路線検索の草分けですからね」

 

 知人の顔に、自分は早くから路線検索システムを使っているのだという自慢げな様子が浮かぶ。幼い競争心を刺激されて訊いた。

「駅すぱあとは、ヴァル研究所というソフト会社が開発したんだよ。知ってる?」

「ヴァル研究所? 知りません」

「そうか。島村さんという人が創業した会社なんだ」

「その社長をご存知なんですか」

「うん、取材で何度もお会いした。とても紳士的な人でね...」

 

 そう、島村さんは紳士的で、好奇心旺盛で、誠実な人だった。ヴァル研究所は東京・高円寺で創業し、業容拡大に伴って代々木、大久保と移転した。なぜ大久保かと訊くと、島村さんはニコリとして言ったものだ。

 

「ここで早稲田の学生を一本釣りしてやろうと思ってね」

 

 大久保の事務所はJR新大久保駅から、島村さんの出身である早稲田大学理工学部に向かう通りの中間点にあった。中小企業が有名大学の学生を採用するのは難しいが、ここに"網"を張っておけば早稲田の学生がアルバイトや社員として来てくれるかもしれない、という読みだ。

 

 代々木の頃は手狭で叶わなかったが、大久保に移転して広くなって島村さんは社長室を設けた。4~5坪、いやもう少し広かったかもしれない。そこは一般の社長室とは少々趣を異にしていた。普通なら経営書などが並びがちな書棚は、エジプト考古学関連書籍で埋め尽くされていた。数千冊はあったろう。

 

「いいでしょう。やっと整理ができましたよ」と、部屋の片面を占めた書棚を見やりながら、島村さんはご満悦だった。氏は知る人ぞ知るエジプト研究家で、エジプト考古学の第一人者である吉村作治氏とも入魂だった。同じエジプト好き、同じ早大、歳も一つ違い(島村さんは19425月、吉村氏は19432月の生まれ)と、親しくならないのがおかしいほどで、当時、早大の助教授だった吉村氏の将来を島村さんは案じてもいた。

 

「エジプト考古学というマイナーな分野ですからねえ。もしかしたら、彼は教授になれないかもしれないなあ...」。幸い、それは杞憂に終わり、吉村氏は早稲田の教授になった(現在、名誉教授)。


 

shimamura.JPG                              島村隆雄さん(写真提供:BCN

 

 

 島村さんのエジプト好きは、ヴァル研究所が開発したソフトの商品名にも反映している。データ処理ソフト「パピルス(8ビット用)/ぱぴるす(16ビット用)」、「ほるす」「ファラオ」、端末エミュレータ用ソフト「アンク80」、アプリケーション開発ソフト「ナイル」――といった按配で、大久保事務所の一階の応接室には本物のパピルスの鉢植えが置いてあった。蛇足ながら、紙を意味する英語のペーパー(paper)は、このパピルス(papyrus)に由来する。

 

 いま、ソフト「パピルス」を「データ処理ソフト」と紹介したが、当時(8ビット用の発売は1983年、16ビット用は1984年)、このソフトは「統合ソフト」と呼ばれていた。一つのアプリケーションでワープロや表計算、データベースなどの処理ができたからで、統合ソフトの標準をなすものとして注目された。

 

 それを可能にしたのは、「時代に先行するソリューションを徹底して追及したい」とする島村さんの姿勢にある。パソコンのCPU8ビットから16ビットに進化するや、ほとんどのソフト会社は16ビット対応のワープロや表計算、データベースなどの開発を目指した。しかし島村さんは8ビットの世界で徹底して統合ソフトを追求した。それは、ユーザーの利便やニーズを考慮したからに他ならない。

 

 説得力のあるビジネス文書を作ろうとすれば、文章だけでなく表やグラフも必要になる。そのことを島村さんは見通していた。「時代に先行するソリューション」とは、そういうことだ。8ビットで完成度の高いソフトができれば、16ビットでもそのクオリティは生きる。

 

 ちなみに「ヴァル」はVALVery Advanced Language)からとったもので、より進化したコンピュータ言語の研究・開発を目指すことを意味する。実際、ヴァル研究所は仕様書記述言語「SPECL-I」、自由構文解析プログラム「FELP」、ソースコード・ジェネレータ「SPECL GEN」といった言語関連の開発からスタートしているが、コンピュータ言語は広義にはソリューションと解釈してもいいだろう。

 

 初めに紹介した「駅すぱあと」も、そうした理念に基づいたものだ。駅すぱあと、というソフト名は人工知能(AI)のエキスパートシステム(ES)に由来する。ESは専門家の知見やノウハウをコンピュータ化するために当時注目された技術(プロダクションシステム)。駅すぱあとは島村さんの友人だった上智大学教授の検索アルゴリズムを援用して開発されたと記憶している。

 

 いま、さまざまな路線検索システムが登場しているが、先行したのは「駅すぱあと」である。そして多くの利用者を得ていることは、島村さんの徹底したクオリティ追求の姿勢があったからに他ならない。

 

 ヴァル研究所は現在、創業の地である高円寺で着実な成長を続けている。惜しむらくは、島村さんは19966月に亡くなられた。同社では来る214日、「駅すぱあと」販売25周年(222日が25周年)を記念したホームページ「エキラボ」を開設する。


  株式会社ヴァル研究所

    〒166-8565 東京都杉並区高円寺北2-3-17

    電話 03-5373-3500 FAX 03-5373-3501

     ホームページ http://www.val.co.jp/


 「創造力に恵まれた日本の地方の環境を活かそう」

 

 飛行機のパイロットが一番緊張するのは離着陸のときだそうである。安定した地面から不安定な空中に飛び出したり、空中から着地するわけだからさもありなんと思うが、取材者の場合は相手に最初の質問を投げかけるときであろうか。

 

 私の場合、飛び込みで取材することは少なく、大抵は事前にアポイントを取るので、相手がどこの誰であるかは予め分かっている。だが初めての相手に対しては大なり小なり緊張する。相手がどんな性格なのか、こちらの質問の意図や意味をきちんと理解してくれるか、どこまで本音を話してくれるか――。

 

 紀井奈栗守(きいな・くりす)さんに初めて会ったときも少なからず緊張した。日本語を話すが、本名はクリストファー・キーナというガイジンさんだから、なおさらだ。だが紀井奈さんには面食らわされた。名刺交換して訪問の意図を改めて説明し、取材を始めようとしたら、紀井奈さんはこう言ったのである。

 

「近くにいい温泉があるから、行きませんか?」

 

 紀井奈さんは株式会社鴨(かも)というコンサルティング会社の社長で、同社は長野県上山田町にあった。温泉好きの人はご存知と思うが、上山田といえば温泉の町である。訪ねた時間も午後遅かったし、取材が長引いたら最終列車で帰ればいいと思っていたから、ままよと誘いに乗った。

  

 温泉の浴場は徒歩数分のホテルの最上階(五階か六階だったと思う)にあった。風呂に入るには時間が早いせいか、利用客は我々のほかに中年の男性が一人しかいない。窓越しに雪を頂いた山が迫り、いい眺望だった。そこで世間話をしているとくつろいでしまい、仕事のことを忘れそうになって弱った。

 

 このときの取材はデータベースソフトをどう活用しているかを訊くのが目的だったのだが、温泉から戻ってみると紀井奈夫人の明子さんがビールやつまみを用意してくださっていて、またまた弱った。私は下戸の部類に入るが、決してアルコールが嫌いではないのだ。

 

 だがここは心を鬼にしてビールを一口飲んだだけで取材を再開し、短期集中型? でとにかく記事をまとめるのに必要最小限のことは訊いた。だが今から思えば、まんまと紀井奈さんの術中にはまった気がしないでもない(といって、紀井奈さんが何かを隠すために取材者を歓待することによって煙に巻くとか、そういう必要は何もなかったはずだが)。

 

 その後、紀井奈さんには別のテーマでの取材や仕事以外でも何度かお会いした。紀井奈さんは米国コネチカット州の出身で、ブラウン大学でコンピュータ科学を学んだあと、カリフォルニア州立大学バークレー校で文化人類学の理学博士を取得している。博士論文は長野県坂城町を研究した「ある地方都市の奇跡――高度成長期の工業発展」というものだ。

 

 「坂城町は人口16000人ほどなのに400社近い中小企業があった。単純計算すると40人に1人は社長なのです。なぜそういうことが可能だったのか、誰にも分からない。行政が計画をしたわけでもなければ、大企業の下請けでもない。そこで調べていくと、旺盛な起業家精神があった。偶然も作用していますが」

 

 坂城町は工業の町というイメージが強いと思うが、産業廃棄物などの汚染の心配がない。それは坂城町の中小企業の環境に対する意識の高さや行政の努力が背景にある――と紀井奈さんは指摘する。

 

 「一方で坂城町は農業も盛んで、住宅地もあり、なんといっても自然が身近でとてもバランスが取れている。私の仕事は創造力を必要とするのでこの環境から力を貰っているが、実はこのことは坂城町に限らない。日本はどこに行っても豊かな自然がある。その中で創造力を働かせながら、競争力のある製品を生み出していくのに、日本の地方ほど恵まれた環境はないのではないかと私は思うのです」

 

 紀井奈さんの会社は日米企業のビジネスの橋渡しを行なっており、日本側の企業の顧客は東京の会社が多い。こうした場合、普通は東京に会社を構えがちだが、紀井奈さんの会社は現在、坂城町にある。それは東京だと経費がかさむこともあるが、主因はバランスの取れた環境にあるという。

 

 「日本の企業は少し大きくなると会社を大都市、とくに東京に移したがるが、いかがなものか。地方にいてこそ発揮できる強みや特徴づくりを、わざわざ経費のかかる大都市に出て、その他大勢になることはないのではないでしょうか」

 

 人の多く集まるところでないと成り立たないサービス業のような業種だと大都市が必要になろうが、ものづくり全般、とくにパソコンソフトやスマホアプリの開発などは、紀井奈さんの指摘するように日本の地方はいい環境にあるといえるかもしれない。

 

 株式会社鴨 :〒389-0601 長野県埴科郡坂城町坂城6362-1 BIプラザさかき内

          tel 0268-81-1350 fax 0268-81-1351

          http://www.kamoinc.com/

「パソコンはヴァーチャルマシン」

 

 NEC(日本電気)の水野幸男さんに単独取材をしたのは数えるほどしかない。パソコンの隆盛期にIT専門紙の記者を7年近くもやっていた身としてはお寒い限りで恥じ入るばかりだが、水野さんには記者としての姿勢を問われたという思いが強い。

 

 1984年だったと思うが、当時「ソフトウォーズ!」というタイトルでソフトウェアのキーパーソンを取材していて、水野さんにもお会いした。のちに水野さんはNEC副社長、情報処理学会会長などを歴任しているが、そのときは常務だった。

 

 水野さんには主としてパソコンOSについて訊いた。いまではWindow 8発売のニュースがNHKでも報道される時代になったが、当時はパソコンOSなど業界内の話で、恥ずかしながら私自身、OSのことはよく解っていなかった(これは今もって変わらない)。にもかかわらず、斯界の権威にOSの取材をしたのだから、今から考えれば蛮勇、笑止というほかない。

 

 だが水野さんは紳士で、当方の質問にきちんと答えてくれた。例えばこんな按配である。

――日電のPCは独自のOSのほかにMS-DOSCP/Mも採用しているが、それらをどう評価しているか。

水野 従来のOSはハードウェアから出ているが、MS/DOSCP/Mはソフトハウスが使いやすさをポイントに開発したもので、注目している。どちらがどうとは言えないが、基本的にソフトウェアはMS/DOSCP/Mそれぞれの上で動く必要がある。そのためにはPCはインポート、エクスポートのポータビリティを持つ一種のバーチャルマシン(仮想機械)という考え方も必要といえよう。


KC3P0070.JPG                  ◎水野幸男さん(BCN『ソフトウォーズ!』から)

 

 コンピュータを仮想機械とする考え方は1960年代の初め、バロース(現ユニシス)が商用初の仮想記憶装置を開発した頃から始まっている。だがそれは汎用大型機の世界の話で、パソコンで仮想化という話はこのとき初めて聞いた。パソコン雑誌などで仮想化が特集記事になりだしたのは1990年代以降ではなかったか。

 

 このときの取材ではUNIXも含めたマルチOSや、マルチタスクという話も出た。シングルタスク環境では逐次処理をするため、ディスクやネットワークの処理に時間がかかり、入力待ちや通信待ちが起きる。その間にCPUを動作させて別の計算をして全体の処理時間を短縮する、というのがマルチタスクである。

 

 仮想化やマルチOS、マルチタスクの話を聞いているうちに、それがどういう世界を招来するのかよく解らなくなった。次に何を訊くべきか? すると水野さんが言った。

「じゃあ、この辺で...」。もらっていた1時間にまだ15分ほど残っていた。

 

 水野さんが退室してから広報担当者がぽつりと口にした。「おかしいな。次までにまだ時間があるはずだが...」。私は敗北感を味わった。そして恥ずかしくなった。水野さんに「これ以上、お前に付き合っている暇はない。ちゃんと勉強して出直して来い」と言われたと思ったからである。

 

 評論家・立花 隆氏の『知のソフトウェア』という本に、100の質問を考えるという話が出てくる。氏はこの中で取材者の力量不足を指摘し、「何とかの件ですが...」と投げかけて相手が勝手に話してくれるのを待つだけで、具体的な質問が出来ないのが多いと述べている。私はそこまでひどくはないと思っているが、このときは10項目ほどしか考えてこなかった。あとはそのときの成り行きでなんとでもなると自惚れていた。それをものの見事に水野さんに打ち砕かれたのである。

 

 以来、できるだけ予習し、100項目とは言わないが、なるべく多くの質問項目を考えるようになった。いま、水野さんに取材する機会があれば、持ち時間を超過しても取材できると思うが、確固たる自信はない。「少しはマシになったが、まだまだだな」と言われそうな気もする。水野さんは20031月に亡くなられた。

 

 AIは革新的かつ効果的な問題解決手法」

 

 いま、女性がコンピュータを使うことはごく日常的になった。だがコンピュータがここまでくるには、先人たちのたゆまぬ研究や努力があったことは言うまでもない。その日本人女性代表とも言えるのが山本欣子(やまもと・きんこ)さんだ。

 

 山本さんに初めてお目にかかったのは 1987年(昭和62年)の春先である。じつはその数年前から私はIT専門紙の記者としてAI(人工知能)の連載を始めており、それを一冊の本(『AIビジネスへの布石』)にして出すことになった。その推薦文をお願いするのが目的である。当時、山本さんは財団法人日本情報処理開発協会の常務理事だった。

 

 東京タワーの筋向いの機械振興会館にある同協会の応接室で待っていると、スラックススーツ姿の女性が颯爽と入ってきた。それが山本さんだった。山本さんは19282月生まれなので当時59歳だったわけだが、バリバリのキャリアウーマンといった雰囲気だった。

 

 趣旨を説明すると笑顔で快諾してくれた。その笑顔がまた魅力的だったので、カメラを取り出して写真撮影をお願いすると「写真ならありますから、あとで送ります」とやんわりと拒否された。

 

 それからしばらくして「発刊に寄せて」というタイトルの推薦文とともに写真が送られてきた。〈う、これは少し若すぎるのでは? やはりあのとき撮っておくべきだった〉と思ったが、お気に入りなのであろうと、ありがたく使わせていただいた。

 

KC3P0083.JPG                              ◎山本欣子さん

 

 推薦文の中で山本さんはAIについて次のように述べている。

 

 ――とは言え、現時点でも既にAIの大きな可能性が予見し得る。特にソフトウェア面から、ある種の曲がり角にきている現段階の情報処理技術にとって、AI技術の応用は、革新的かつ効果的な新たな問題解決手法の1つと言えるだろう。

 

 東京女子大数学科を出た山本さんは、逓信省(総務省の前身)電気試験所、日本電信電話公社電気通信研究所などでソフトウェアの研究開発に携わっている。日本独自の論理素子として注目されたパラメトロン計算機の研究開発にも参画するなど、わが国のコンピュータの草創期を担った一人だ。山本さんが推薦文で述べたことは、四半世紀たった現在でも生きている。

 

 山本さんとはその後、日本情報処理開発協会の中にできたICOT-JIPDEC AIセンターの委員会に私がオブザーバーとして参加する羽目になって、何度もお会いした。いつも颯爽として、的確な意見を述べておられた。

 

 あるとき、階段を駆け下りてフロアを曲がったところで、山本さんとぶつかりそうになったことがある。「ああ、びっくりした!」と胸に手を当てた山本さんは、恐縮する当方を気遣うように笑顔を見せた。バリバリのキャリアウーマン的雰囲気とは違った女性らしい一面を垣間見た気がした。コンピュータ一筋の人生で、1997年に亡くなられたが、もっと話を伺っておけばよかったと思う。


2013年2月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28    

カテゴリ

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうちIT産業カテゴリに属しているものが含まれています。

次のカテゴリはエッセイです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。